2011年9月4日日曜日

[ 文房具短編小説 第1話 ] 消したい想い

彼女は走った。
こんな夜中に全力で走っている自分に嫌気がさしていたのかもしれない。
信号待ちのたびに膝に手をあて、肩で呼吸している。鼓動の高鳴りは呼吸の乱れではないのを感じていた。
月明かりに照らされた樹々は、夜風にそよぎいつもより賑やかに感じられた。それは彼女の期待を煽るにはじゅうぶんだった。
いつも待たせているのには悪いとは思っているのだが、それを心地よい笑顔で受け止めてくれる彼。その彼とは今年で7年の付き合いになるが、いつもより声を震わせながら電話がかかってきたのは昨夜のことだった。

20110903_001.jpg

彼は待った。
いつものことだと考えればそれはすごく簡単なことだった。
目の前には飲みかけのモヒートが置かれていたが、どうにもこれ以上クチをつけるタイミングを失ってしまった。
吸い始めた煙草の煙の行方を追うように、そっと天井を見上げる。それはいつも見ている風景でもあったが、今日は妙に色褪せて見えていた。
いつも待っているのは彼なりに好きでもあった。相手を待たせるのは気分が悪いが、逆になるとそれは不思議と穏やかな気持ちにもなれる時間だったからだ。何かあったのではと思う時もあったが、その溝を埋める時が来たのではと心なしか考えたのは昨夜のことだった。それを確認するために彼は電話を入れることにした。
ユキは待った。
いつか彼から話しを切り出してくれると思っていた。
7年の間に何回も話しあって来たけれど、なかなか結論には至らない彼に少なからず飽きれていたのかもしれない。でも、そう思わせていたのは自分にも理由があるのではと思い始めていた。
目の前の事に夢中になるだけでなく、周りが見えなくなるのがたちの悪いところ。
ここまで上がってきたのはそれなりの努力と向上心なしでは成しえなかった。それを理解して欲しかったと言えば何という厚かましさだったのだろうか。
自分と彼の将来像を描くには方向性に違いが見えていたのかもしれない。
アツシは走った。
昨夜の電話で話している中で大きな想いが膨らんでいた。
いつかは一緒に。それは長年想い続けていた二人の未来。でも、自分には全く自信がなかった。今のままで彼女は飛び込んできてくれるのだろうか?アツシを悩ませていたのは些細な事だったのかもしれない。
得意先からの急なクレームに対応していたために大幅に時間が押してしまった。店が閉まるのは21時。僅かな希望にかけて大通りでタクシーを拾った。
店の扉が開くと、店内にはベルの音が鳴り響いた。
ユキが真っ先に見たのはカウンターの一番奥の席。二人のお気に入りの席だった。
しかし、彼の姿は見当たらない…
カウンターには飲みかけのモヒートと灰皿には数本の煙草がキレイに並んでいた。
トイレかな?と思ったて隣の席に腰掛けてた時に、後ろから声をかけられた。
ユキさん?
声の主はバーのマスターの比革だった。
アツシさんなら15分ほど前に帰られましたよ。どうなさいますか?
ユキはその言葉に疑った。
何も言わないで変える事など過去にも無かったし、連絡も入れないなどありえなかったからだ。
そ、そうですか…
では、一杯だけ。
そう伝えると、ユキは携帯を取り出しメールを打ち始めた。
ユキの前にマティーニが置かれた。
彼女がありがとうと言うと、比革がメモを取り出しカクテルグラスの横にスっと差し出した。
アツシさんから預かってました。
そう言うと、比革は店の奥に歩んで行った。
ユキへ
きょうだけはちゃんと向き合って話したかった。
また連絡します。
アツシ
短い言葉だったが、いつもとは違う雰囲気が感じられた。メール入れてくれれば良いのにと思いながらも、メモを残した彼の想いに浸っていた。
ユキは少し温くなったマティーニをぐっと飲み干すと、アツシにメールを送り店を離れることにした。
駅まで歩く間、メモを見つめながら、自分に何が出来るのかを考えていたが、自分から行動できない苛立ちもあった。仕事なら自分を出せるのに、彼の前では素直になれない…
彼女強さが逆に首を閉めていたのだ。
アツシが店の扉を開けると、いつもの席にユキが先に座っているのが見えた。
珍しいな。そんな想いにかられたけが、素直に嬉しかった。
昨日事にはお互いに一切触れなかった。
それは一緒に過ごした時間だけが理解してくれている。
だから、いつもの様に過ごせることが喜びでもあった。
しかし、それはほんの一時間くらいのことだった。
ユキの携帯に時を割いてしまいそうな呼び出し音が鳴り響いた。
ゴメンね、と言いながらユキは携帯を片手に店の外にまで出て行ってしまった。
アツシは手元にあるモヒートを飲み干し、別の注文を頼もうと店内を見ました。
比革の姿は見当たらず、最近入ったと言うアルバイトの万城村という若い女性を呼び止めた。
何か強い酒を…
ユキが謝りながら店内に戻ると、上着と鞄を持ち出しその場から立ち去るような雰囲気だった。
どうした?声をかけた。
ゴメンね仕事が入ったの。
ユキはそれ以上言わず店の扉を開けて出て行ってしまった。
比革が奥からロングアイランドアイスティーを運んで来た。
二本ささったストローの片方を指にからませて、いっきに飲み始めた。
そっと上を見上げると、声が漏れていた。
またか…
目の前の事に夢中になりすぎて、走って行く彼女の事ももちろん好きだった。
でもな…。
気が付かなかったのは、万城村に話しかけられた時に分かった。
あの、、
コースター、、
一瞬何を言われているのかが分からなくなり、視線は空を切っていた。
よく見るとコースターの下にメモが置いてあることが分かった。
20110903_002.jpg
どうやら上の空でいたらしい。
全く気づく事がなかった。
手にしたメモには名前が書いてあるだけだった。
春野 淳司
北川 雪
アツシはメモを眺めながらユキの事を懸命に考えていた。
このメモには何らかの想いがあるのだろうなと…しかし、鈍感な彼には分かるはずもなく、ただただ時が流れて行くだけだった。
半分。いや、それ以上諦めて帰ろうかと考えていた時に比革から話しかけられた。
これを。
短い言葉をかけ一本のペンを置き去り、空いたグラスを片付け始めた。
何の変哲もないペン。
キャップ式のその辺で買えそうなペンだった。
比革の差し出したペンを格闘しながらある結論に辿り着いた。
参ったな。
まさかユキから伝えられるとはおもわなかったな。
何かを理解したのか、すこしはにかんだ様子のアツシに、比革は変わりのカクテルを差し出した。
比革さん?
こんなペンありますか?
ユキに話しかけられた比革は、あるよとだけ答え、彼女のマティーニに横にそっと差し出した。
何やらゴソゴソと鞄をあさっている彼女を横目に、比革はシェイカーを持った。
店内には氷の奏でる心地よい音が鳴り響いた。
自分の鞄から取り出したペンと比革に借りたペンを使って名前を書き出した。
そして、比革に一つお願いをした。
彼が来たら私の携帯に電話をかけて下さい。
わたしが出たら直ぐに切って下さい。
そして、彼がもしカクテルを注文したら、このメモを渡して欲しいんです。
多分なにも分からなく迷うはずなので、最後にこのお借りしたペンを差しだして下さい。
一つじゃないしと思ったが、比革は了承した。こういう店ではよくある事だ。
駆け引きは好きではないが、それに少しでも役にたてるのは嫌いではなかった。
アツシが煙草の火をつけるタイミングを見計らってユキに電話をかけ、通話になった瞬間に電話を切った。
少し不機嫌に見えたアツシにも悪い気はしたが、今夜は特別な日になりそうな、そんな予感がしていた。
幸い他の客がみんな帰っていたので、自分の仕事がやりやすかった。
アツシから注文が万城村から伝えられた。
悩んだが、ロングアイランドアイスティーを作るのには自然な動作だった。
普段なら変えることのないコースターに渡されたメモをはさみ、アツシの目の前に差し出した。
どうやら気づく様子がないので、しばらく放っておくことにした。
万城村にしばらくしたら話しかけるように伝えておいた。
メモを眺める彼が何だか可愛く見えたが、いいかげんヒントを出すことにした。
アツシさん、これを。
そういって空いたグラスの横に一本のペンを置いた。
20110903_003.jpg
しばら眺めてペンと格闘していたが、どうやら答えが分かったようだ。
彼の顔から笑顔がこぼれた。
アツシは電話をかけていた。
仕事だと言っていたから出ないとは思っていたのだが、すぐに通話となった。
遅い…
ユキが開口一番言い放った。
そして店の扉が開いた。
20110903_004.jpg
アツシの隣に再び座るとカウンターの上に置かれているメモには眼を落とした。
春野 淳司
       雪
北川の苗字が消されてあるのが分かった。
ユキは彼の肩に身体を預けた。
で、とうしてくれるの?
アツシは先日買っていた指輪をユキに渡した。
冬が終わりを告げ、春の雪融けの季節となった。
ー E N D ー

0 件のコメント:

コメントを投稿